【本】『世界の経営学者はいま何を考えているのか』

2012年の本。通勤時間(といっても片道30分)を有効活用すべく、今さらながら読書。

専門用語や数式の使用を最小限とした読みやすい文章、適切な長さの章構成で、電車数駅で読める。

その割に、経営学の研究の積み重ねを概要レベルで知ることができ、仕事で役立ちそうな観点を得られる(緻密ではないが、イデアのヒントにはなる)。

リアル・オプション(段階的な投資)、両利きの経営(知の深化&知の探索)、組織の記憶とトランザクティブ・メモリーなど。

これまで読んだ経営学の本の位置づけを再考したり、また、イデア出し、知識の整理、気になるジャンルの開拓に役立つ「地図」となる本。

深くはないが、学びのリハビリには適していた。

【本】『太陽を創った少年』

14歳で核融合炉を自作した(!!)天才児(ギフテッド)テイラー・ウィルソンと、彼の家族や協力者・メンターたちの物語。量子物理学のノンフィクション。

 

テイラーが科学・社交性の両面に置いてギフテッドであることもさることながら、そんな彼がウィルソン家に生まれたという巡り合わせがすごい。

 

両親の育児方針は、「子どもたちが自分らしさに気づけるようにすること、そして彼らがその自分らしさを伸ばせるよう、できるかぎりのことをすること」というもの。

 

危険な研究に興味を持ったときも禁止するのではなく、「信じよ、されど確認せよ」の精神で機会を与える。
自分たちの理解を超えたときは、人脈を辿ってメンターと引き合わる。
子どもの教育のために、仕事と家を変え、アメリカの東から西へと引っ越す。
危険な結果になりかねない情熱を実現し、サポートするために、 安全で創造的なあり方を見つけ出す。

 

彼らのアプローチは-はじめは手探りで、途中からは意図的に選択した-、並大抵の親ができることではない。

自宅の庭で盛大な花火を打ち上げたり、ロケットを打ち上げたり、自宅ガレージに放射性物質をコレクションしたり、あげく核融合炉を作り始めたり…。少なくとも私は発狂しそうだ。

 

だが、両親が施してくれた、ギフテッドにとって理想的な教育も一助となり、テイラーは14歳での核融合達成という偉業を成し遂げ、さらなる高みを目指して羽ばたき続けている。

危険な分野への好奇心を親に禁じられ、裏庭の小屋で一人で増殖炉を作ろうとして危うく大惨事を起こしかけたデイヴィッド・ハーンの暗い人生とは対照的だ。

 

テイラーの高まる名声の陰で、早熟な彼に振り回されたウィルソン一家の苦難-両親の疲弊。兄の影に隠れたもう一人の天才である弟・ジョーイの苦しみ(テイラーには早く自立してほしい、「早くジョーイに集中したい」という両親の言葉は痛切)を考えると、「なるほど、我が家もウィルソン家流でいこう」と単純には思えない。

だが、油断するとすぐに「ヘリコプターペアレンツ」-ヘリコプターのように子どもの上空を飛び回って、やることなすこと全てに口を出す-となりがちな自分にとっては、ウィルソン家の子育ては、自分を戒め、「行きすぎ」を防ぐのに役立つと感じた。

まずは子どもたちに自分のヘリコプターを操縦させ、その上で、子どもたちがその世界を探検したり、広げたりするのに役立つ材料を持って後から乗り込むのだ。


ギフテッド教育、親と子どもとの向き合い方、物理学への誘いなど読み応えたっぷりな良書。

とにかく分厚く、科学の読み物を読み慣れていないと辛い部分もあるが、腰を据えて読んで良かった。

 

最後に、本書を通して得た、自分自身の育児への教訓をまとめておく。


① 子供が幼い頃に普通とは違った様々な場面を体験させる

  →無理のない範囲にはなるが、土日や平日休みの時にいろいろな場所に連れていく
  →様々な場所で情報を集め、彼・彼女らの興味を引き出す


② 子育ての代替物に頼りすぎず、
自分の子供やその興味の対象に時間と労力をそそぐ
  →習い事を詰め込むより、週末に一緒に工作したり出掛けたり経験したりする時間を大切にしよう
   (ただし、私自身がやりたいことを抑圧し過ぎない範囲で)

③ 成長型マインドセットを身につけるため、 成功そのものではなく 子供の強みや成功のためにしたことをに注目し褒める
  →普段の声がけを「できたね、すごい」と結果を褒めるのではなく、「○○を工夫しているところが良いね」「いいところに気が付いたね」などプロセスに着目して具体的に褒める(これは「学力の経済学」でも触れられていたが)

④ギフテッドの才能開花は運に左右される。すべてのギフテッドが才能を開花させ、幸せに生きられるわけではない

  →親は気負いすぎない(すべてをコントロールできるわけではないし、そのために心血を注ぎすぎてもお互い辛い(自分の子どもがギフテッドというほどの才能があるとは思っていないが…)


⑤自分の手に負えなかったら、専門家の支援を仰ぐ

  →分からないから禁止する、ではなく、適切な助言者を引き合わせる。メンターを見つける手助けをする(仕事の基本姿勢とも通じる)

 

⑥ギフテッドがぶつかる壁の一つが学校。環境を整える

  →子どもが多感な時期に情熱と才能を発揮できるよう、子どもの特性によっては中学受験をさせる(中学受験へのあこがれが強すぎるかもしれないが、できる限り、周囲と合わせるのに消耗する空間ではなく、のびのび知性を発揮できる環境を与えたい。世帯年収的に厳しいので、公立中高一貫校の受験しか選択肢はないかもしれないが…)

第二子復帰後の受難-子の体調不良、いきなりのフル稼働、身体症状、封じないとやっていけないモチベーション-

様々な経緯(さほど余裕がある家庭でもないのに、なぜ二人目を授かったのか)を書く前ではありますが、現在の率直な考え・感情を残すために、記録しておきます。

 

4月中旬に第二子育休から復帰しました。

 

復帰時点で子どもは11ヵ月、保育園での慣らし保育も順調。

第一子出産後の諸経験の中で、夫の家事育児参画もそこそこ(1日3時間は担当)。

復帰前面談で、妥協することなく、自分の希望(勤務時間・場所・復帰直後の業務内容)を伝えて調整。

 

第一子の時と比べて、万全を期しての復帰のつもりでした。

 

が、蓋を開けてみれば、第一子の時以上に過酷な状況に陥っています。

 

第二子の保育園登園率は、約60%(第一子は、80-90%程度)。

復帰後はいきなりお客様プロジェクト、かつリーダーアサイン(希望は完全無視)。

 

1年弱のブランクを取り戻すだけでも精いっぱいなのに、PC設定すら終わらないうちからお客様先でミーティング。

子どものお迎えコールは平均週2回、翌日も登園できないこと多数。

 

幸い、多様な働き方の実現の重要性を理解しているパートナー(会社の中でも2人のみ。希少)の担当プロジェクトであり、若いPMもチーム全員が不幸にならない働き方を実現しようと、話を聞いたり、役割分担の見直しをしたりと協力的です。

この点は、本当に恵まれていると思います。

 

けれども、少なくとも5月前半までの仕事は、プロジェクト全体の肝となる部分であり、代替できる人がいない。

スケジュールが非常に厳しいプロジェクトのため、少しの遅延が致命傷となる。

このような状態にあっては、子どもが体調を崩したからといって、仕事をしないわけにはいかない。

 

結局、子の体調不良時であっても、保育園に行けなかった子の看病の合間に-つまり、子の起床前・子の昼寝中・子の就寝後に-仕事。1日6時間程度の稼働は確保。

そのかいあって、プロジェクトとしての進捗はグリーン。

 

でも、子どもの体調と自分の体調、そして自分の生活はレッド。

「子どもの体調が落ち着くまで、1週間程度の辛抱」と思っていたら、胃腸炎の次は気管支炎、謎の高熱、気管支炎再び…と非常事態が4週間。

その間、上の子は両親が下の子にかかりきりなので、不安定になってイヤイヤが増大。こちらが声を荒げることも増え、イヤイヤが増長。

 

もはや、訳が分かりません。

 

そして、様々な負荷は、私の体調に現れました。

復帰1週間後から、髪が大量に抜けるのです。

 

起床後、髪が首にあたるからと手で梳くと、それだけで10本、20本。

ドライヤーを充てれば、また10本。

勤務中、何もしていなくても、ハラハラと数本落ちてくる。

入浴中は、排水溝の蓋が髪の毛で見えないほど。

 

婦人科と皮膚科を受診したところ、女性ホルモンが原因ではない(つまり産後の一時的なものではない)脱毛症になっていました。

円形脱毛が3か所。女性型脱毛も併発。

脱毛部分が大きく、もはや髪型ではカバーできず、既製品のウィッグ使用(アートネイチャー系列のジュリア・オージェで購入)。

こちらも、大きな脱毛部分を覆うため、人工皮膚の面積が広いものとなり、10万円以上かかりました。

これとは別に、皮膚科の通院費もかかります。

 

さらに、週2以上保育園に行けていないため、病児シッターも利用しています。

1時間あたり2800円、 区から1時間あたり1000円の補助が出るとはいえ、一日あたりの自己負担額は1万円以上。

有給休暇を取得すれば働かなくてもお金がもらえるのに、稼働しても時給相当額はすべて病児シッターに消えていきます(むしろ赤字)。

 

仕事への意欲を持って復帰したにも関わらず、子の体調不良で思うように働けない。

脱毛症まで発症してしまった。お金以上に精神的にきつい。

 

身体的にも精神的にもボロボロだが、第二子の看病と第一子のケアとで、まったく休めない。

お金だって、「人並みに働く」ためだけにどんどん消えていく。

きつい、辛い、哀しい。

 

そうして達した結論が、「仕事へのモチベーションを一時的に捨てる、封じるしかない」というものです。

家事の効率化はある程度以上に実施済、頼りになる実家・義実家は近くにない、アウトソースに使える潤沢な資金もない、子は体調不良続き…という状態では、仕事への情熱を持ち、責任を果たそうとした結果、自分の生活と命を削る状態になってしまっているからです。

 

育休中に参加した育休MBAなどでは、「育児を自分たちでやり切ろうとしない、上手にアウトソースする」という考え方、スキル、具体的な手段を学びました。

けれども、我が家の世帯収入では、アウトソースするにも限界がある。

夫の年収800万円、自分の年収が(短時間勤務で)400万円、世帯年収は1200万円・子一人といった家庭ならば、仮に妻の年収を全額アウトソースに費やしても生活はできるのだと思います。

 

が、我が家は違います。

世帯年収は上記の例の80%以下(手取りでは、当然もっともっと下です)。

夫婦ともに大企業勤務でもない。

夫の収入のみでは、生活費を賄えない(生活水準は慎ましいものの、夫の収入も相応に慎ましい)。

保育料以外に捻出できたとしても、月2万円が限界です。

 

それでも。

育休中に「仕事は大変だけど、大切なものだし、一時的な費用は自己投資と割り切ってキャリアを全うしよう!」という考え方を知った/知ってしまった分、「目先の出費を痛いと考えている自分は、お金の使い方が下手なのではないか」「この程度のことで躊躇してしまうから、自分たちは豊かではないのではないか」と、自分たちの選択に対する罪悪感や間違っている感が消えません。

 

心身ともに健やかな時ならば励みになる考え方・言葉が、弱っている今は自分を大いに傷つける。

 

後から振り返れば、「あのときは思い詰めていたなー」と笑えるのかもしれませんが、とりあえず今は、参っています。

 現状を打開するためには行動あるのみですが、まずは行動できるだけの気力を取り戻すため、この文章を書きました。

 

いつか読み返した時、自分はなんと思うのだろう。

「大丈夫だよ」と言える状態になっていると、良いな。

保活③-園が遠いなら引っ越してしまえー

保育園は決まったけれど

0歳4月から認可園を利用できるようになったものの、月齢制限で自宅近くの園に入園できなかったため、徒歩25分、バス利用で15分の園に通うことになりました。

きつい坂道を登って駅の反対側に渡り、保育園に子どもを預け、また駅に戻る。
保育園見学時に聞いたところでは、同じ地区から通っていた家庭は、遠くて大変なので途中で転園していったとのこと。
自分自身も「通えなくはないが、毎日となると大変」という感触を持っていましたが、少ない選択肢の中ではまだ現実的な方だったので希望園として残しました。

けれども、入園当時0歳5ヶ月の子どもを抱えての登園は、やはり想像以上に過酷だったのです。

 

月齢が低すぎて電動自転車が使えない

「多少距離があっても、坂道がきつくても、電動自転車ならば何とかなる」
電動自転車に活路を見出していましたが、実際には使えませんでした。

 

まず、たいていの自転車のチャイルドシートは、1歳以上でないと利用できません。
自己責任で乗せるにも、そもそも腰据わり前の赤ちゃんは、座ることができません。
となると、赤ちゃんを抱っこまたはおんぶで乗ることになりますが(ただし、抱っこは都条例違反です)、こちらも抱っこ紐によっては難しいのです。
私はベビービョルンOneを利用していましたが、抱っこすると赤ちゃんのお尻が自分の腰、足が太腿に位置します。
この状態では自転車に乗れません。

仕方なく、自宅近く(といっても徒歩5分)の停留所からバスに乗って登園することになりました。

 

低月齢の保育時間制限から、送り迎えを共に担当

送りと迎えの担当を分けるのが一般的な負荷軽減策ですが、どちらも私が担当することになりました。
低月齢のうちは、保育時間に制限があるからです。
0歳8ヶ月までは、8:30~18:15まで。
そして、18:00以降の延長保育は、満1歳の誕生日以降。
夫は職場が遠い上に始業が早いため、送りを頼む場合、7:30には園を出なければなりません。
定時退社したとしても、延長保育を使わない限り、お迎えにも間に合いません。
少なくとも0歳8ヶ月までは、送迎の負荷と、それによる勤務時間の制約を私が受け入れざるを得ませんでした。

 

0歳児は預けるまでに時間がかかる

見学を通して、認可園は預ける際に保護者が行うタスクが多く、預けるまでに10分は必要だとは理解していました。
が、実際にやってみると、「保育室に入って出るまでが10分」であって、その前後の時間-門のオートロックを解除してもらい、保育室まで移動し、入室前に(子どもを抱っこしたまま、園児用の低い流しで)手を洗い…-を含めると、10分ではとても終わりません。
毎日使うもの(汚れ物袋、ベビーラック用タオル、ガーゼ、授乳用タオル)のセット、オムツ交換、検温。
子どもが通うことになった園は、預かり時の健康チェックも厳しく、服を脱がせての視診(発疹がないかを確認)も必要でした。
0歳5ヶ月ですと、子どもは腰が据わっていないため、抱っこしたまま作業します。準備効率も上がりません。
保育園の門をくぐってから出るまで、なんだかんだで15分近くかかりました。

 

自宅から園までが15分、園を出るまでに15分、園から駅まで戻るのに10分。
利便性を考慮して駅徒歩10分の物件を選んだのに、通勤時間が片道30分伸びてしまいました。

 

バス登園は時間が読めない

自宅から園までが15分、園を出るまでに15分、園から駅まで戻るのに10分。
これは、あくまで適度な待ち時間でバスに乗れた場合です。
実際には、自宅を出る前に子どもが吐き戻した、便が漏れたなどの理由で、バスに乗り遅れることもありました。
加えて、夕方は道路が混雑するため、バスも遅れがちです。
バッファを見越してスケジュールを組むと、1日5時間しか勤務時間を確保できませんでした。


慣らし保育3日目に限界を感じる

「保育園への送迎が不安。やっていける気がしない」
入園式前から何度も夫に訴えましたが、よく言えば我慢強く、悪く言えば現状に満足して変化を起こさない夫は、「大丈夫」「何とかなる」「育児の負担が寄ってしまう分、家事はする」「今の家は良い家だよ」と、あくまで現状のまま頑張ろうという考えでした。


しかし、入園後の慣らし保育3日目で、私は音を上げました。
3日間、一度も予定していたバスに乗ることができず、指定された登園時間に間に合わなかったこと。
「登園前の支度は、自分がする」と言っていた夫が、実際には朝の着替えと顔拭き、保湿をしなかったこと。
そして何より、3日目の登園時、検温結果が37.8℃で即時帰宅することになったこと。
帰りのバスの中で、子どもの発熱に気が気でない上、ものすごい疲労感に襲われたこと。

 

「大丈夫って言ってしまうのは、自分が育児の当事者じゃないからだ」

「送迎の時間で、ただでさえ少ない子どもとの時間が奪われるのはイヤだ」

「そもそも身体がもたない。仕事どころじゃない」

復帰後のスケジュールと送迎時のタスクを感情を載せて説明し、実際に夫を保育園に連れていくことで、ようやく夫に引っ越しを認めさせました。

 

地域密着の不動産屋に助けられる

引っ越すことを合意したとはいえ、既に4月上旬。
引っ越しシーズンは既に終わっており、ファミリー向けの物件は多くありませんでした。
毎日、賃貸物件サイトとグーグルマップ(物件名を入力して周辺の地図と保育園からの距離を確認)を見て物件を探しました。
引っ越し先候補の地区の物件は、名前を聞けば、間取りと家賃が分かるようになったほどです。


とはいえ、保育園からの距離と家賃、設備面の条件(ドラム式洗濯機が置けること)を満たす物件は、ほとんどありません。
ようやく見つけた候補は、家賃は現在と同額、ただし、駅からは10分遠くなり、また、風呂の追い炊き機能がない物件でした。

 

家賃は変わらずグレードは下がるが、ここに決めるしかないのか。
あきらめかけていた時、慣らし保育中にふらりと訪れた地域密着の不動産会社で、奇跡的に納得できる物件を見つけました。

3月末に急に異動が決まって引っ越したとのことで、クリーニングも住んでいない物件です。
駅から徒歩25分となりますが、駅と保育園、家がこの順に並ぶため、無駄な移動(駅の反対側まで行って戻る)がなくなります。
また、譲れない条件(ドラム式洗濯機が置ける、洗面所独立)を満たしており、かつ、家賃は月2万円下がります。
外観は年季が入っており、きわめて庶民的なアパートではありましたが、振り分けタイプなので音の心配も少なそうです。
さらに、下の階には小学生が住んでおり、内見した時には、学校帰りに友達を呼んできていました。子連れでも住めそうです。

 

グレードは大きく下がる。でも、家賃も下がる。
さらに、保育園は徒歩圏内になる。
100%満足のいく物件ではありませんでしたが、許容範囲ではあった上、家賃が下がることで、引っ越し費用も2年で回収できます。

 

引っ越し日は職場復帰の2週間後。ゴールデンウィークもあるため、最初の1週間を乗り切れば、登園の負荷が減らせることになりました。

 

引っ越しにより、保育園問題がひと段落

この引っ越しにより、妊娠した途端に直面した保育園問題は、一応決着しました。
保育園まで徒歩登園となり、時間が読めるようになったため、稼働時間と子どもとの時間を共に延ばすことができました。
身体的な負荷と、「駅の反対側まで行って戻る」という徒労感もなくなりました。

「賃貸に住んでいるのならば、保育園決定後に引っ越すのは悪くない戦略だ」と、声を大にして言えます。


ただし、引っ越しは物件探し、引っ越し業者選定、引っ越し準備、引っ越し、後片付け、家事導線や買い物・小児科等の再考など、負荷が小さくありません。
できることならば、保育園決定後、職場復帰までに済ませておくことを強くお勧めします。


実際、職場復帰後に引っ越しを強行した私は、その1週間後(職場復帰からは3週間後)、深夜にいきなり悪寒を感じるや、39℃の発熱が1週間続きました。

子どもの急な体調不良に備えて妊娠中から残しておいた有給を、自分の体調不良で使ってしまったのです。

 

最初から「今の家からは遠いが何とか通える園に入れる。そして、入園後速やかに引っ越す」という戦略を立て、夫と合意しておけばよかったなと、今となっては思います。

 

保活②-保活は情報戦ー

「保活」としてできることは意外と少ない

主として国の基準を満たした保育園(認可園)に子どもを預けるために必要な一連の活動のことを、「保活」と言います。
「保育園落ちた日本死ね」が「2016ユーキャン新語・流行語大賞」になったことで、待機児童問題の深刻さも、保活の辛さも広く知れ渡ることになりました。

 

私自身も保活をしました。

が、正直なところ、妊娠発覚後だと、できることはそれほどありません

せいぜい、下記3点くらいです。

 

a.自分の置かれた状況を正確に把握する
b.入園のための基本戦略を立てて実行する
c.認可外を確保する(できれば認可園の結果発表前に)

 

とはいえ、少ないながらも保活をして良かったとは思っています。

ここでは、私が何を考え、いつ・どのような活動をしたかを紹介します。


保活は妊娠中から

0歳4月入園を目指していたため、妊娠中から保活を始めました。
情報収集は妊娠9週から、保育所見学も16週から開始。
「保育園に入れなかったらどうしよう」という痛切な不安を押さえるため、「敵を知り、己を知れば」と、情報収集に努めました。

 

a.自分の置かれた状況を正確に把握する

①保育利用案内の入手

まずは、役所で保育利用案内を入手しました。

保育利用案内には、下記の情報が記載されています。

  • 保育園一覧と基本情報(住所、対象年齢、保育時間など)
  • 利用調整方法
  • 利用調整に使う指数(ポイント)の計算方法(保育を必要とする理由、勤務時間、シングルや兄姉同園などの家庭状況etc...)

Webサイトからも入手できる自治体も多いですが、後述の通り、利用調整方法・指数の計算方法が複雑なので、紙媒体で読むのがおすすめです。 

②保育利用案内の熟読・不明点解消

利用調整方法を熟読し、自分の指数がどのくらいになるかを計算します。
指数計算および優先順位付けは非常に複雑なので、不明点や定義があいまいな部分をチェックして、窓口や電話で片っ端から確認しました。
例えば、

  • 勤務時間とは何か(就業規則?勤務実績?)
  • 時短を取った場合、指数は下がるのか
  • 休憩時間は勤務時間に含まれるのか
  • 待機期間は選考において考慮されるのか

などです。

 

回答を聞いても腑に落ちない場合、自分の理解を確認するため、具体例を挙げて質問しました。

「フルタイム共働き第一子の人、パートタイムで第一子が通園中の人、パートタイムでシングルの人がいて、指数は同じ○点の場合、優先順位はこの順になりますよね?」といった具合です。
最初から分かりやすく記載・説明してくれれば…と思いつつも、自分と子どもの生活がかかっているので、納得がいくまで確認しました。

仕事と同じレベルでのヒアリングです。

 

③通えそうな園のピックアップ

保育利用案内掲載の保育園マップを使って、候補園をピックアップしました。
このとき、月齢制限により0歳4月に入園できない園は、×印をつけていきます。
さらに、ピックアップ漏れを防ぐために、保育課の窓口の人にマップを見せ、見落としがないかを確認しました。
担当してくれた人にもよりますが、「この園には、この地区からも申し込んでいる」など、有意義な情報を教えてくれる人もいました。

 

④希望園の精査

候補園に、想定する交通手段・ルートで行き、「本当に通えるか」を確認しました。

また、せっかくなので、保育園見学もすることにしました。
保育方針でえり好みできる状況ではありませんが、登園時間が同程度の場合の優先順位を決めるためです。
私自身は保育園に通ったことがないため、保育園での子どもたちの生活を知ることも目的の一つでした。 

 

園見学は、子どもが多い日時に行かないと意味がないので、平日昼間、妊婦健診の日を一日休みにして見学しました。
10園以上、妊娠18週ごろから36週くらいまでかかりました。

 

認可園の場合、保育園見学をしたところで利用調整で有利になることはありません。

が、「本当に通えるか」を確認しておいて、本当に良かったと思います。
実際に登園してみることで、

  • 細い坂道が続き、自転車で通りにくい
  • 直線距離は近いが、駅の反対側に渡る通路がない
  • 降車駅のホームを反対側まで歩かないと、最寄り出口に着かない

など、地図からは読み取れない情報がわかり、候補園を精査することができました。

 

⑤入園難易度の調査

希望園の精査と並行して、候補園の入園難易度を調べました。
各園の前年度の最低入園指数(どの条件の人まで入園できたのか)を役所に問い合わせたのです。


0歳4月の他、1歳4月と3歳4月も確認しました。

3歳4月を確認したのは、2歳児までの保育園に決まった場合、3歳以降の受け入れ先があるかを調べるためです。

 

開示方針は自治体によって異なりますが、私が住んでいる自治体は、窓口または電話で問い合わせれば教えてくれました(同じような問い合わせが多かったからか、翌年からはWeb公開になりましたが)。

 

一覧表を作ってみると、自宅付近の園(月齢制限のため、0歳4月では申し込めない)の1歳4月入園は、やはり非常に厳しいことがわかりました。
園によっては、フルタイム・兄姉登園ありが最低ラインでした。
やはり、「家から遠いが何とか通える園に、0歳4月で入れる」という基本戦略を採るしかないのです。

 

⑥入園申込

10月に翌年度の保育利用案内が配布されたら、いよいよ入園申込をします。
書類記載方法がややこしいので、勤務先のバックオフィスの方が間違えないように、「ここは~を記載してください」と付箋で注意書きをして依頼しました

(私の場合、ここまでやってから出産に臨むことができましたが、10月出産予定の方は、パートナーなど他の人にフォローをお願いしておいた方が良いと思います)。

 

また、利用年度の保育利用案内を入手したら、前年度からの変更点を確認しましょう。
私の場合、利用年度から、0歳児の月齢別の最大保育時間が変わったことを見落としており、保育園内定後に焦りました。


b.入園のための基本戦略を立てて実行する

基本戦略で一番重要なのは、「いつ入園させるか」「認可園に入れるために、認可外に預けた実績を作る必要があるか(受託ポイントの獲得が必要か)」だと思います。

別の記事に書いた通り、私の場合、共働きが必須だったので、入園時期は0歳4月としました。
また、認可外に預けてもほとんど加点がなく、そもそも認可外も4月でないと入園できないため、認可外に預けての復帰実績作りはしませんでした。

 

 

c.認可外を確保する(できれば認可園の結果発表前に)

認可外に預けてもほとんど加点がないため、私の場合はあくまで「0歳4月に認可園に入園できなかった場合の押さえ」として認可外保育所を探しました。
認可園の情報収集(実際に行ってみる、見学する)と並行で、認可外の見学と申込方法を確認していきます。


自治体、施設によっては、1年先の予約を受け付けている園もあると聞きますが、認可園が充実しているからか、私が住む自治体ではありませんでした。
翌年度の利用について初夏時点で電話したら、「そんな先のこと」と失笑した園もあったほどです。

 

結局、私が実際に見学したのは4園ですが、申込時期や選考方法は園によってまちまちでした。

  • 翌年度の申し込みは10月から。先着順。
  • 翌年度の申し込み受付中。単願は先着順。認可園と併願する場合、利用調整結果発表時に空き枠があれば抽選。
  • 翌年度の申し込みは10月から。本部が基準非公開で選考。結果発表は認可園の利用調整結果発表と同日。

この中で、私は認証保育所(国の基準は満たさないが、東京都独自の基準を満たした保育所)1園と、完全な無認可園1園に申し込みました。
無認可園には予約金3万円を払っています。
どこかしらの認可園には入れるのでは、という期待はあったものの、確実ではなかったため、安心のために枠を確保しました。
電車で通うことになり、また、繁華街の雑居ビルということで抵抗はありましたが、「保育園が決まらず退職」という不安から逃れられるなら安いと思ったのです。


保活の結果は?

2月の第二週、認可園の利用調整結果の発表がありました。
結果、私立の認可園(第四希望)に内定しました。
自宅から単身で徒歩25分、バスを利用して15分と遠いものの、バス停から近いのがせめてもの救いでした。
驚いたことに、認証1園も選考が通りましたが、予約金を支払った無認可園と共に早々に辞退しました。

 

妊娠するまで地域の保育園事情の深いところを知らず、窮地に陥ったものの、得意の情報収集能力を活かすことで、何とか挽回できたのだと思っています。


保活は終われど、窮地は続く

こうして、一番の懸念事項だった保育園は確保できました。


けれども、保育園が決まり、復帰後の具体的な生活を検討し始めると、まだまだ問題は山積みです。
保育園が遠いため、通勤時間に登園時間を加算すると、勤務時間が大幅に減ります。
そうなると、給与の手取りが想定以上に減ります。
また、裁量労働制だったころの収入ベースで算出された保育料は高額です。
さらに、バスを使っての登園となるため、バス定期が月1万円弱かかります。
「育児をしながらコンサルタントを続けられるのか」以前の問題として、勤務時間にお金、そして体力面での問題が押し寄せます。


保活は終わっても、窮地はまだまだ続くのです。

保活①-妊娠時点で月齢の壁に直面ー

妊娠前の保育園調べは甘々だった

妊娠というと、温かくて幸せなイメージがありませんか。
けれども、私の場合、妊娠発覚時点で既に厳しい状況に陥っており、溢れる不安と闘いながら窮地からの脱出を試みる日々でした。

 

私が陥った窮地とは、待機児童問題そのものです。

 

個人の志向性のみならず、家計としても共働きは必須です。

けれども、保育サービスを確保できず、待機児童になるかもしれません。

待機児童になった場合、最悪、仕事を失うかもしれません。

となると、家族三人暮らしていけるのだろうか。

そして、私のキャリアはどうなってしまうのだろうか。

 

多少は待機児童問題について調べていましたし、新居を決めるにあたって「待機児童が少なく保育園に入りやすいか」も考慮しました。
けれども、今から思えば、調べ方が甘すぎて「待機児童問題を考慮して選んだ」とはとても言えませんでした。
具体的には、何が問題だったのでしょうか。


月齢の壁が立ちはだかる

母子手帳を受け取ったその足で、役所の保育課に立ち寄りました。
出産予定日は晩秋でしたが、少しでも早く情報を得たかったのです。
その時点での最新の保育利用案内を入手し、窓口の方に待機児童数や入園難易度について尋ねました。

  • 待機児童は1歳児クラスが最もが多い。フルタイムでないと入園は厳しい
  • 前年度までは、0歳児ならば、パートタイムで入園できた園もあった
  • どの学年でも、年度途中での入園は非常に厳しい
  • 保育園に入りやすいという評判からファミリー層が流入し、待機児童が増加えている

など、答えられる範囲でいろいろ教えてくれました。

そして、この時初めて、居住する自治体の特徴ー0歳から入園する場合、月齢制限があることーを知ったのです。

 

女性が仕事に復帰できるのは、原則、産後8週間以降です。

このため、保育園で預かってくれるのも、最短で生後8週以降です。

とはいえ、これはあくまで労働基準法での話。実際は、園ごとに0歳児クラスに入園可能な月齢が決まっています。
そして、居住する自治体の公立認可保育園は、ほとんどが比較的高い月齢(生後6か月など)でないと入園できなかったのです。

 

当時の自宅近くにも、保育園はいくつかありました。
けれども、それらは全て公立園で月齢制限があり、私の子どもは0歳4月時点では申し込めません。
育児休業を延長して1歳4月入園を目指すにしても、1歳児の募集枠は2~3名。

下手したら在園児の弟妹で埋まってしまいます。

 

保活ガイドには、認可保育園に入る方法として、「最初は認可外保育園に預けて仕事に復帰し、ポイントを稼ぐ」という方法が紹介されています。

が、私の場合、こちらの方法も使えませんでした。
なぜなら、自治体の待機児童が比較的少ないのは認可園を増やしているからであり、逆に言うと、認可外の保育園がほとんどなかったのです。
また、この自治体の選考の特徴として、認可外に預けても、ほとんど加点されません。つまり、 何としてでも認可園に一発で入れるしかないのです。

 

限られた選択肢

当時も今も賃貸住宅に住んでいます。
保育園が厳しいのならば、引っ越せば良いのでは、と思う方もいるかもしれません。
実際、私の知人にも、会社の近くに引っ越した人もいます。

 

けれども、今度はコンサルタントという職業がネックになります。
帰社日を除いてお客様先に常駐、また、プロジェクト期間は平均3~4か月なので、職場近くの保育園に預けようにも、職場自体が変わるのです。

 

この時点で、採りうる戦略は、3つしかありません。

 

a.家から遠いが何とか通える園に、0歳4月で入れる
b.入園可能性は低いが、自宅近くの園に1歳4月で入れる
c.違う自治体(職場の近くではない)に引っ越す

 

妊娠発覚時点で、夫と私の家計構成比は、4:6でした。
産後は勤務時間が制限されるにしても、依然家計の半分を担うため、自分が仕事を辞めるわけにはいきません。
この時点で、リスクが高すぎてb.の戦略は採用できません。

 

また、c.を採用しようにも、さらに都心に引っ越すと、家賃が上がります。
収入が減ること、子ども関係の支出が膨らむことは見えているので、家賃という固定費を増やすのは危険です。
また、郊外に引っ越すとなると、家賃は下がりますが、通勤時間が伸びます。
加えて、「手ごろな家賃とそこそこの通勤時間」に惹かれてファミリー層が多く住むため、都内にアクセスしやすい郊外は、下手すれば都内より待機児童が多いのです。

 

消去法で「a.家から遠いが何とか通える園に、0歳4月から入れる」を選ぶほかありませんでした。

 

0歳4月入園を目指して

産休明け保育を実施している園ならば、晩秋生まれでも、0歳4月から入園できます。
けれども、条件に合う園は駅の反対側にしかありませんでした。
さらに、駅近の園は少なく、例年高倍率とのこと。

 

また、仮に希望する園に入れたとしても、子どもは、0歳4月時点で生後4ヵ月。
「生まれてくる子どもと、たったこれだけしか一緒にいられないのか?」

「保育園問題がなければ、もっと一緒にいたいのに」

「一馬力でやっていける家庭以外、子どもを持つなということか」

哀しい気持ちが次々と押し寄せてきます。

 

そもそも、この自治体に住んだのが誤りだった?
いや、保育園の種類や入園月齢まで調べて家を決めなかったのが問題なんだ。
そして、月齢問題を考慮して、産み月を調整しなかった自分が愚かだった。
でも、月齢が保育園の入園難易度を決めるポイントだなんて、思いもしなかった。

 

妊娠の喜びから一転、不安と悔恨に捉われ、鬱々とした気分になりました。
それでも、生まれてくる子どものために、何とか保育園を確保するしかありません。
こうして、私の保活が始まりました。

 

私の経験から学べること

「待機児童が少ない」という漠然とした情報だけで居住地を決めるのはやめましょう。

  • 特にネットの情報は、同じ自治体でも地区、入園年齢、年度によって大きく変わるので、鵜呑みにすると痛い目に遭います。
  • 保育利用案内を入手して、自治体ごとの特徴ー具体的には、「0歳児保育を実施しているか」「月齢制限はあるか」「どのように利用調整(選考)を行うのか」「認可園に落ちた場合の選択肢はあるのか」など―を調べましょう。
  • フリーランスの方の場合、自治体によっては、会社員よりも不利になることがあるので注意しましょう。

自治体によっては、保育園の入園可能月齢を考慮した産み月の調整(バースコントロール)も必要です。

悪い冗談にしか聞こえませんが、自治体や家庭の状況によっては、それくらいしないと保育園に入れないのです。

不器用に生きてきましたーキャリア・結婚・妊娠ー

「出産を機に、ここまでいろいろ変えなきゃならないとは、思ってもみなかった」


そう言うと、「将来への見通しが甘かったからだ」「わかったうえで、コンサルになったのだろう。自己責任だ。」と言われることがあります。


確かに、職業選択において「働きやすさ」を重視してきませんでしたし、結婚や妊娠にいたっては、まったくの無計画でした。

けれども、その時々で、不器用ながらも必死に生きてきたことも事実です。

 ここでは、キャリアと結婚、妊娠についての経験を紹介したいと思います。

 

キャリア:「働きやすさ」よりも「やりがい」を選んできた

大学卒業後、大手SIerのSEとしてシステム開発に従事しましたが、数年働くうち、「これって本当にお客様のためになっている?」とモヤモヤするようになりました。

組織に対する違和感で消耗するのは耐えがたく、20代後半で現在働いているコンサルティング・ファームに転職しました。

コンサルタントになりたいからなった」のではなく、「納得して働ける場所と職種を探したら、コンサルタントだった」というわけです。

 

当然、転職後は苦労しましたが、スキルやメンタリティの壁を乗り越えて「お客様に貢献できている」という実感を得るたび、仕事にのめり込んでいきました。

昇格ペースは早くないので、ずっと続けられるとは思いませんでした。

それでも、「仕事を通して、少しでもましな自分になりたい、貢献したい」という思いで、コンサルを続けてきました。

 

結婚:自分には起こらないことだと思っていた

家族計画・展望については、正直、まったく考えてきませんでした。

というよりも、「自分もいつかは結婚して、子どもを持つのだろう」とは、到底思えなかったのです。

 

理由は二つあります。

 

一つ目は、「自分が女性であること」を受容できなかったからです。


私は、保守的な地域で育ちました。

勝気で理屈っぽい性格は、度々「女らしくない」「女のくせに」と批判されました。

また、家庭では、専業主婦の母に対して、父が高圧的に振舞っています。

幼い頃から「女性であることは損だ」「男性だったら、こんなことに苦しまなくても良いのに」「私は、結婚なんてしない」と考えるようになりました。
 

二つ目は、「誰かと親密な関係を築けるはずだ」という自信を持てなかったからです。

 

大学入学後、私は「女性はこうあるべき」という抑圧的な女性観を持つ人と、長期間付き合ってしまいました。
意に沿わない言動をすれば「女性らしくない」と罵られ、別れ話を切り出せば「自分を見捨てるのか」と懇願または恫喝されました。
今から思えば、モラハラです。
けれども、経験が乏しく、また、自信がなかった私は、その人の言葉に捉われ、身動きが取れなくなってしまいました。

数年後に意を決して別れたものの、爪痕は非常に大きく、すっかり自分に自信がなくなってしまいました。
そして、自己嫌悪に陥りながら、「結婚以前に、誰かと親密なパートナーシップを築くことすら無理だ」と感じるようになりました。

 (当時の私は、パートナーシップと結婚、出産はを一続きのものとして考えていたため、「結婚せずに子どもは持つ」という選択肢は考えていませんでした。)

 

「結婚・出産は、自分の人生には関係のないもの」。
そう考えていたので、転職に際して「働きやすさ」は全く重視していませんでした。
第一、新卒入社したのは、世間的には「女性が働きやすい」と評価される会社です。
働きやすさを重視するならば、転職する必要などなかったのです。
けれども、当時の私は、「働きやすさ」よりも、今この時点での「働きがい」を選びました。

 

今でも、この選択自体は後悔していません。
悪戦苦闘しつつも、情熱をもって仕事に取り組んでいたからこそ、仕事への思いやワーカホリックな側面も理解してくれる夫に出会えたのだと思っています。


妊娠:「知りたい」の気持ちで試したら、予想外に早かった

「結婚と出産は一続き」、かつ、「結婚は自分とは無関係」と思っていたので、当然、妊娠についても考えてきませんでした。
けれども、実際には、30代前半で結婚した翌月、妊娠が発覚しています。 

 

子どものいる人生を想像してこなかったのに、すぐに妊活を始めたのはなぜか。

 一言でいうと、「自分は妊娠できるのか、できないのか」を早く知りたかったのです。

 

夫は、自分の収入は高くないので、共働きで子どもを育てたいと望んでいました。
私自身、子どもは嫌いではなかったので、最初から「子どもを作らない」と決める必要はないと考えました。

 

また、30代前半ともなると、「妊娠すること、産むこと」をめぐって、様々な経験をした人と出会います。

「○歳までに妊娠するとしたら、チャンスはあと△回しかない。とにかく子どもが欲しい。」

流産してしまった過去を思い出して、夜中に突然泣き出した知人がいました。

 身体的・精神的な負担が重い(もちろん金銭的にも)、不妊治療をしている人もいました。

 

 「妊娠・出産には、タイムリミットがある」「今の選択で、子どもがいる人生を歩むのが決まる」。
それまで遠い存在だった妊娠・出産が、いきなり現実問題として迫ってきたのです。

  

当時、私は数年越しの大プロジェクトに参画していました。
地方出張が多く身体はきつかったものの、自分が飛翔するきっかけとなる案件の予感がしていました。
「この案件を最後までやりたい」という思いは当然ありましたが、案件の区切りを待っていたら、私は30代後半になります。
妊孕率が年齢とともに低下する以上、いくら何でもそれはマズイと考えたのです。

 

子どもができたら、自分のキャリアはどうなるのか。
また、住んでいる自治体は保育園に入りやすいと言われるが、実際どうなのか。

 

本来ならば、妊活前にもっと突き詰めて考えるべきでした。 

けれども、「望んだからといって、すぐに来てくれるとは限らない」「まだわからないことを考えても仕方ない」を言い訳に、深く考えることを避けていました。

 

「子どもを強く求め、その上で手に入れることができなかったら、どんなにしんどいだろう」と、考えること自体が怖くなった、というのもあります。

  そして、「とりあえず、自分が妊娠できるのか、できないのかを知りたい」、その気持ちと勢いだけでーどうしようもない言い方をすれば、「運試し」の感覚で試みたらー、予想外に早く、妊娠したのです。

 

小さな胎児が写ったエコー写真を見て、「無事に生まれるだろうか」と不安を抱きつつも、ちょっとわくわくしたのを思い出します。
そして、ようやく今後のことを具体的に考え始めたときには、すでに厳しい状況に陥っていたのです。